魂との対話 9

9. 私たちは生命を軽視している 

私たちの進化を可能にしているカルマと生まれ変わりのシステムは、中立である。物理的世界内の作用と反作用の数々が、エネルギーを活性化し、それによって私たちの体験がつくり出され、その過程で、魂がまだ学んでいないことが次々とはっきりしてくる。

 

もしも私たちの行動がほかの人たちの心を乱したとしたら、私たち自身もまた、今回の人生か別の人生のなかで、同じような心の乱れを体験することになるだろう。また、もし私たちの行動が、ほかの人たちの心に平和とパワーをもたらすことになったとしたら、それも、いつしか同じように体験することになる。このようにして私たちは、自分がつくり出した原因の結果を体験するとともに、それを通じて、真の責任の所在を学ぶことになる。 

カルマと生まれ変わりの枠組みは非個人的であり、すべての魂に、それらのパーソナリティーの行動に反応する形で、進化に必要な体験の数々を平等に提供する。よって、進化のプロセスにかかわっているパーソナリティーの姿勢が、魂が進化のために必要とする体験の質を決定することになる。

 

たとえば、怒りっぽいパーソナリティーは、人生で遭遇する困難な状況に怒りで立ち向かい、そのために、怒りによって導かれるたぐいの結果を体験することになるだろう。悲しみに満ちたパーソナリティーは、同じようにして、悲しみによって導かれるたぐいの結果を体験することになる。

 

ただし、たとえ怒りに満ちていても、生命に対する畏敬の念をもつ人間は、人生で直面する困難な状況に、ただ怒りっぽいだけで生命を敬うことのない人間とは、まったく異なった反応をしめすだろう。生命を敬わない人間は、生命に対する攻撃を躊躇することがない。

 

人を殺すこと、あるいはほかの生き物を殺すことを通じて放出される凶暴性は、怒りに満ちた言葉を通じて放出される凶暴性より、はるかに規模が大きい。殺すことで生み出されるカルマ的負債、エネルギーのアンバランスの解消は、それと同等に残酷な体験によってのみ可能となる。

しかし、畏敬の念をもつ人間は、それをもたない人間には避けがたい極端に厳しいカルマ的体験を、自動的に回避できる。

私たちは生命というものを軽く見過ぎている。そして、その認識が、あらゆる認識に染みこんでいる。たとえば、私たちは動物の王国に目をやり、その王国内のさまざまな活動を、自分たちの生き方を肯定するためのものとして眺めている。私たちはある動物が別の動物を殺して食べているようすを見て、弱い生命体は強い生命体を養うためにだけ存在すると結論づけている。自分たちが自然の摂理だと認識するアイデアを盾に、生命を食い物にする自分たちの行為を正当化しようとしている。

私たちは傷つけ、殺害する。サイロに穀物を大量に蓄え、ミルクを下水に捨てつづけるいっぽうで、飢えに苦しむ無数の人々が存在する状況をつくり上げている。私たちはお互いを、自分の感情的、肉体的ニーズを満たすために存在する獲物として見ている。「この世界は食うか食われるかの世界だ」と私たちは言う。そして、「そのなかで生き残るには、利用される前に利用しなくてはならない」とつけ加える。

私たちは人生を、勝者と敗者をつくり出す戦いの場として眺めており、ほかの人たちや生き物たちのニーズが自分たちにとって脅威に映ると、躊躇なく攻撃を仕掛ける傾向にある。

私たちの行動パターンや価値観は、畏敬の念を欠く認識の影響をあまりにも強く受けてきたため、いまや畏敬の念とは何かさえ忘れてしまっている。もし私たちが、競争相手をののしったり、誰かの力を奪おうとしたりしたら、そのとき私たちは、畏敬の念から遠ざかっている。もし私たちが、与えるためにではなく奪うために働いているとしたら、そのとき私たちは、畏敬の念を持たずに働いている。

私たちは、他人の安全を犠牲にして自分の安全を確保しようとしているとき、畏敬の念を自分自身から奪っている。私たちは、他人を裁いているとき、畏敬の念を自分から遠ざけている。自分自身を裁いているときにも、また、ある人間を別の人間よりもすぐれていると考えているときにも、行っていることは同じである。

畏敬の念を欠いたビジネス、政治、教育、セックス、子育て、そして社交のすべてが、「人間によるほかの人間の不当な利用」という、まったく同じ結果を引き起こす。